なんちゃって山屋

閑人備忘録

殺人の門(東野圭吾)読了

殺人の門 (角川文庫)

殺人の門 (角川文庫)

小学生の頃からの付き合いである田島和幸と倉持修の二人。田島和幸の人生の転機に必ず登場する倉持修、然も悪い方向へ転機するときに限って頼みもしないのやってくるのだ。そんな倉持に対して何時しか殺意を覚える田島だった。だが、殺人という行為に対して厳格なほどの拘りや動機を求める田島は、何度もチャンスがありながらも倉持を殺すには至らなかった。

そんな悶々とした日々を送っていた田島が今度こそは、と決意したら第三者に先を越されてしまった。先を越されてしまったが、幸か不幸か倉持は一命を取り留めることができたが植物状態となってしまった。そして最終的に田島が小学生の頃に鴨にされたインチキ五目並べの男性と、田島の家にお手伝いとして働いていた女性の無駄口により田島は揺るぎない殺意を持って倉持の病室へと向かった。

少年時代に裕福だった田島と、豆腐屋の息子で経済的に恵まれかなった倉持、田島が気づかないところで倉持は田島に嫉妬し、何時かは田島を不幸にし、自分は裕福になると誓っていた。何処にでもある貧富の差をテーマとし、そこに殺人者として矜持、否、理想を追求する田島と、決して田島を絶望的な不幸には陥れないが立ち直るのに少々の時間がかかる程度の不幸に陥れ、田島と比較して財力に余裕のある自分に優越感を感じる倉持、この優劣状況は最後まで続く。

人を不幸にするのも貧困、人を奮起させるのも貧困、其れを具現化したのが倉持の生き方だ。逆に裕福が人を堕落させてしまうのを具現化したのが田島だ。尤も堕落したと評したら田島は納得しないかもれないが。

貧富の差がベースとなっているが、田島の少年時代には虐めに遭うというシーンもある。そこには虐めの理不尽さは勿論のこと、更に虐めに加担する人間達の心理状態も描かれている。田島が虐めに遭うシーンは小説全体のボリュームからしたら極僅かであるけど、「集団があれば虐めもある。」は蓋し名言だと思った。

600ページを超える長篇小説だけど途中で退屈することはなかった。殺人という行為に憧れ何時しか実行を、と日々思っていた田島でも実行には中々及ぶことが出来なかった。それほど殺人という行為はハードルが高く、また理性や臆病心や利己主義が邪魔をするのだ。そんな田島を嗤っていたけど、僕だってそういう世間体や体面があるから無茶なことはしないだけど思ったら、名も無き市井の人の生き方は其れでいいんじゃないかと納得した。人に迷惑をかけない、人を不快にさせない、全うに生きる、此れが庶民の暮らしだろう。